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歴史デザイン・山笠と牡丹のはなし。

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本社が、福岡の博多区にあるネオ倶楽部プリッヅ事業部。
7月がはじまると、福岡市博多区では、一気に山笠ムードに染まっていきます。
特に、7月9日のお汐井とりという行事で「おっしょい」の掛け声とともに、筥崎宮の浜へ向かう行事が始まると、山笠は本格始動です。

それ以降、舁き山が動き始め、福岡市内の繁華街であっても交通規制が行われ、山のぼせと言われる男衆たちは、仕事に都合をつけながら1週間の長丁場、山笠へ参加していきます。
そして、今年はユネスコの無形文化遺産にも登録され、注目度も自ずと上がります。


飾り山も、舁き山も、流れごとに、毎年デザインが変わります。
表題が設定され、博多人形師の方々が人形を制作・指示のもと、山笠に参加する舁き手たちが組み上げていきます。yamakasa


デザインは変化しますが、「岩こぶ」「波板」などは、毎年使っていくものでもあります。
そして、「岩こぶ」「波板」以外で、変化するデザインの中でも、必ず毎年飾ってある花があります。
日本の花といえば、桜?と思いがちですが、実は『牡丹』。
そして、そこには、歴史的なお話が言い伝えられています。

飾られている牡丹は、佐賀の「切木(きりご)の牡丹」と言われます。

どうして山笠に牡丹?佐賀の話?

舁き(かき)山、飾り山どちらにも牡丹(造花)が飾られています。

「切木(きりご)の牡丹」と言われる、この牡丹の話は、豊臣秀吉と博多の歴史に関わってきます。

切木(きりご)は、佐賀県唐津市肥前町にある地名で、ここの民家で育てられている牡丹は大輪で、佐賀県の天然記念物に指定されています。
地元の言い伝えによると、この牡丹は今から約400年前、同地方を支配していた波多三河守が大切に育てていたと言われている牡丹です。

秀吉に城が取り潰される時に、ひそかに持ち出され切木に移し植えられました。
その牡丹が、山笠の飾りに使われています。


安土桃山時代のおはなし

九州征伐にやってきた秀吉に対し、参陣、秀吉に恭順し、島津征伐に参加の旨を表するも、
島津には庇護を受けた経緯があった波多三河守親は遅参してしまいます。

そして、文禄の役。秀吉の命の下、鍋島勢らと共に千人の兵と共に渡海し兵を三百までに減らしつつ鍋島勢と共に敵兵二万を
撃退した奮戦ぶりであったにも関わらず、朝鮮での戦いぶり、卑怯、あるいは勝手な振る舞い、まことにけしからぬという。誰やら不明の三人の奉行の讒言があったとか。

城は取り潰し、焼き払われましたが、その際、三河守の妻”秀の前”が重臣に依頼し、ひそかに持ち出され切木に移し植えられました。


三河守の妻”秀の前”と牡丹

「英雄色を好む」といわれる、代表とも言われる。豊臣秀吉は、正妻「ねね」のほか、側室が20人近くいたし、そのほかにも手当たり次第に女性に手を出したと伝えられています。

そして、この三河守の妻”秀の前”が、特に美しく、女性に対してだらしない秀吉は、その三河守の妻に横恋慕をしたことに良い感情を持っていなかったことが、三河守が遅参した原因とも言われています。
そして、過去の歴史として、事の真偽はわかりませんが、そういった噂に同情した博多人は、「切木(きりご)の牡丹」を山笠へ飾るようにしたと言われています。


良いも悪いも、その時代を繋ぐ想いや感情でデザイン・意匠は現代まで伝統として続いているんですね。

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